白井晟一の建築     現在30件紹介!!

僕は白井晟一の建築「石水館」との出会いが、秋田県羽後町の文化の再発見を行うきっかけとなりました。
関係者に協力してもらい、金庫に眠っていた「羽後病院」の図面を見つけることもできました。
以後、白井作品を日本中訪ね歩いています。僕が見てきた白井作品をここで紹介します。        山内貴範
稲住温泉浮雲  
昭和25年(1950) 秋田県湯沢市 
白井晟一は戦時中、稲住温泉に荷物を疎開させていたことから旅館の設計を引き受けることになる。
以後の作品も温泉オーナーの押切氏の紹介によるものであり、「浮雲」は秋田での活動の出発点となった作品といえよう。
「浮雲」の名は林芙美子の小説から引用している。戦前の「歓帰荘」の名残が見られる現存作品として唯一のものであろう。
旧秋ノ宮村役場  
昭和26年(1951) 秋田県湯沢市
白井晟一の代表作の1つであり、戦後の地方建築に新風を巻き起こした名作である。稲住温泉の敷地に移築された。
村の民家から発想したという急勾配な屋根とバルコニーを設けた開放的なつくりは、雪国の建築概念を覆すもので、
当初は批判されたが、ひと冬過ごして見ると快適であることがわかったため、やがて白井への賞賛に変わっていった。
アトリエ No.5
昭和27年(1952) 東京都中野区
画家のアトリエとして建てられた住宅で、現在は白井原多氏が主宰する「白井晟一建築研究所」の事務所になっています。
これを見て、あっ!秋ノ宮村役場だ!と思いました。大きな屋根を広げた姿は瓜二つです。中心に柱を1本建てるデザインも、
白井氏がよく用いた手法です。晩年特有の灰汁の濃い設計ではなく、窓も大きく開放的で、住みやすそうな家だと思いました。
稲住温泉玄関
昭和28年(1953) 秋田県湯沢市
稲住温泉の玄関部分の増築である。
高久酒造酒蔵茶室・琅汗席   ※「汗」の字は、正しくは「王」偏に「干」。
昭和28年(1953) 秋田県湯沢市
高久酒造の酒蔵の2階にある茶室と座敷。柱が畳に突き刺さっています。
この茶室で用いられた花頭窓風のデザインが「奥田邸」でも用いられている。
酒蔵のなかに座敷がある理由は、酒蔵の造石高を検査にくる役人を接待する場として利用されたためと言われている。 
鷹ノ湯温泉
昭和28年(1953) 秋田県湯沢市
超マイナーな白井作品であり、白井ウォッチングに秋ノ宮を訪れた人でも見落としている作品ではないだろうか。
稲住温泉の向かいにある旅館の建物だが、残念ながらごく僅か原型を留めているにすぎない。
館内は大幅に改築されているが、玄関周りは白井晟一のデザインが比較的よく残る部分だと思った。
旧大館木材会館
昭和28年(1953) 秋田県大館市
かなりマニアックな白井作品であり、秋田県北に残る貴重な作品である。現在は「保安産業」の事務所となっている。
「旧秋ノ宮村役場」とそっくりの姉妹作だが、工事関係者が勝手に庇を短くしてしたことに白井は激怒し、
自作として認めなかったというものだ。それでも館内の至る所に白井モチーフが見られ、特にバルコニーは美しい。
試作小住宅
昭和28年(1953) 秋田県湯沢市
湯沢市に移築された白井の初期の住宅作品です。もともとは世田谷にありました。
旧雄勝町役場   
昭和31年(1956) 秋田県湯沢市
火災で焼失した前庁舎の建て替えであり、雄勝郡内で初めての鉄筋コンクリート庁舎として記念碑的作品である。
1階部分が改造されているのが残念だが、螺旋階段やアーチなどは当時のままで、保存状態は良好と言えるだろう。
議場に入るとギリシャ神殿のような柱が突如として現れるが、あれは何か意味があるのだろうか? 謎である。
旧松井田町役場
昭和31年(1956) 群馬県松井田町
白井晟一の代表作の1つであり、戦後建築界で巻き起こった「伝統論争」の引き金となった重要な作品である。
当時「畑の中のパルテノン」と呼ばれた。中に入ると、白井が好んで用いた螺旋階段が目に飛び込んでくる。
山間部の町に建設された役場としては破格の建物であり、鉄筋コンクリートの不燃構造が採用されるのも珍しかった。
奥田邸(奥田酒造)
昭和32年(1957) 秋田県大仙市
ネット初公開となる、超マニアックな白井晟一の住宅作品である。建設中、白井は一度しか現場を訪れていないそうだ。
「旧秋ノ宮村役場」から「善照寺」の宙に浮いた造形に進化する過渡期の作品といえるのではないだろうか。
ちなみに、この「奥田酒造」は、超神ネイガーの名前を冠したお酒を醸造していることでも有名である。
善照寺本堂
昭和33年(1958) 東京都台東区
浅草にある寺院の本堂である。白井晟一の最高傑作と評されている。「秋ノ宮村役場」と似ているが、
この頃から屋根と躯体が一体となったデザインになってくる。宙に浮いている造形は原爆堂計画の原型であろうか。
緊張感がある細い手すりが良い。黒塗りの柱が並んだ内部は、稲住温泉や酒造会館でも見られたデザインであった。
湯沢酒造会館・四同舎   
昭和34年(1959) 秋田県湯沢市
酒蔵が共同出資して建てられた会館である。小規模なイベントが催されているようですが、普段はがらんとしている。
白井晟一定番のはちのす状の装飾や、螺旋階段がここにも見られる。「四同舎」の意味を調べてみると、
仏語の四同(同讃、同勧、同證、同體)と、漢語で王城近郊四方の方百里(東京〜湯沢の距離)の土地のことらしい。
横手興生病院本館
昭和37年(1962) 秋田県横手市
横手市にある精神病院の建物である。安原盛彦教授からいただいた情報によると、解体が決定しているそうだ。
館内は窓が殆ど無く、照明を消したら真っ暗なんじゃないかと思うが、竣工当時はもっと暗かったと聞いている。
白井が秋田で手がけた病院建築の中で唯一現存しているものである、姿を消すとなると寂しくなる。
稲住温泉 離れ山荘 
昭和38年(1963) 秋田県湯沢市
浮雲」完成後に増築された稲住温泉の離れである。4つの部屋があるが、部屋の構成から意匠まで全て異なっている。
白井にとってこの離れの設計は一種の実験の場だったのかもしれない。高雅な空間で、時間が経つのを忘れてしまう。
稲住温泉の建物は初期の白井作品において、ターニングポイントと言えるのではないだろうか。
親和銀行大波止支店
昭和38年(1963) 長崎県長崎市
佐世保の本店があまりに有名だが、この大波止支店も小品ながら名作である。
秋田の作品では見られない大理石をふんだんに使った豪華な内装も見ごたえがある。
相変わらず窓が全然無いが、正面に池を配置して街のオアシスのような空間を作っているのが良かったと思う。
親和銀行東京支店  解体
昭和38年(1963) 東京都中央区
この建物は平成18年の夏、跡形もなく解体されてしまった。

初めて見たとき、「横手興生病院」を縦長にしたような建築だと思った。
石を削りだしたかのようなどっしりとした重厚なファサード、そして謎のはちのすと、白井ワールド全開である。

一連の親和銀行の作品のうち、最初に竣工したものである。扉にもはちのすがいっぱいあり、階段のデザインも面白い。
窓を凹ませて配置することで壁の厚みが引き立ち、独特の重量感を醸しだすことに成功している。
横手興生病院厨房棟
昭和40年(1965) 秋田県横手市
地元で「はちのす病院」と呼ばれているように、穴がいっぱいあいたファサードが強烈であり、一度見たら忘れないだろう。
私の友人の古関君はこの建物の向かいに住んでいるが、幼い頃から変な建物だなあ〜 と思っていたそうだ。
ファサードの穴は実現しなかった「東北労働会館」計画案を偲ばせる。というか、そのまま使っただけな気もするが。
呉羽の舎
昭和40年(1965) 富山県富山市
戦後木造住宅の傑作の1つとして詳細な図面が出版されているほど、あまりにも有名な白井晟一の代表作である。
建築材としてはほとんど使われていなかった栗材を用いているのが最大の特徴である。
呉羽山頂に向かう途中にあり、門屋・主屋・書屋の3棟から成る。主屋のHP掲載は断られたため、門屋のみ掲載。
親和銀行本店
昭和42年(1967) 長崎県佐世保市
白井のライフワークとなった親和銀行の本店。見所は多いが、茶室は必見。白井の美意識の結実した空間である。
銀行職員曰く、維持管理だけでも莫大な金がかかるそうだ。また、真っ暗な館内は一般客や行員からも評判が悪く、
バリアフリーの点からも抗議も殺到するという。それでも改造をしないで使い続けている親和銀行は偉大だと思った。
虚白庵
昭和45年(1970) 東京都中野区
言わずと知れた白井氏の自宅です。半ば伝説化している自宅「滴々居」を取り壊して、新たに建設されたものです。
家のなかに入ると、とにかく異様な暗さです。白井氏が使ったという寝室には窓が1つもない・・・ 
2010年4月1日から解体されることが決まってしまい、最後の「お別れ会」となる一般公開に行ってきました。
昨雪軒
昭和46年(1971) 秋田県横手市
横手興生病院の院長の自宅である。寺院の僧房を思わせる不思議な和風建築で、内部を見たとこがある人の話では、
居間に上がった瞬間「暗い!」と思うそうで、照明器具も蛍が飛んでいるような明るさしかないそうだ。
秋になるとモミジが紅葉し、美しさは格別である。秋に見学することをオススメしたい(個人住宅なので内部見学は不可)。
サン・セバスチャン館
昭和47年(1972) 茨城県日立市
キアラ館を見学して振り返ると目に付き、もしかして白井か?と思って調べたらまさにそのとおりであった。
教室として使われているため、残念ながら内部を見学することはできなかった。学生の方、ぜひ詳細を教えてもらいたい。
凹んだ窓、分厚い壁などが特徴的だが、ちょっと白井のボキャブラリーにはない珍しい造形なのでは?と思った。
聖キアラ館
昭和49年(1974) 茨城県日立市
茨城キリスト教学園の敷地にある礼拝堂である。クリスマスの時期には一般にも公開されるようだが、
残念ながらまだ内部を見たことがない。白井の十八番である、石と木を組み合わせた不思議な空間が広がっているそうだ。
ファサードにはレンガを凹凸に貼り付けている。照明器具は「ノアビル」や「石水館」でも使われていたものと共通であった。
ノアビル
昭和49年(1974) 東京都港区
東京タワーの足元に建つオフィスビル。竣工当時は「現代の墓標」と評されたそうだ。交差点の角にどっしりと聳え、
周囲一帯を引き締めているようにも見える。基壇のレンガ積みの部分はなんと3階分あるため、入口の天井が高い。

ちなみに白井は意匠設計のみを行い、内装は各々のテナントに任せているとのことだ。
彼の一連の作品に見られる御影石をふんだんに用いた壁面や、超閉塞的な構造が特徴的である。
どうやら現在も入居者を募集しているようだったが、これに入居したいという企業は・・・あまりいないような気がするが。

入口の横に管理者が無断で穴をあけたとき、白井晟一が激怒して殴りこみ(?)に行ったというエピソードが有名である。
親和銀行コンピューター棟 懐霄館
昭和50年(1975) 長崎県佐世保市
説明不要、白井晟一の最高傑作である。

僕は白井の一連の作品を探訪し最後にこれを見たが、あれこれ言う必要は無いだろう。ぜひ生で見ることをオススメしたい。

館内には白井が海外から買い付けてきたというアンティークな家具が陳列され、それら単独ではバラバラな意匠なのだが、
白井の感性によって配置されると調和してしまうのだから驚きである。外観にしても白井は女性が逆立ちしている原画を、
何枚か残しているそうですが、非常にエロティックである。卑猥と高貴のギリギリのところをいっているというのだろうか。

事前予約すれば見学可能だ。僕はそのことを知らずにいきなり行ったが、職員の方が親切に案内してくださった。
松濤美術館
昭和55年(1980) 東京都渋谷区
同時期に建てられた「石水館」の姉妹的作品。高級住宅地のため高層を採用せず、主要部を地下に埋めるという構想。
中央部にエントランスを設けるお馴染みのデザインである。地下にある吹き抜け空間が最大の見所であり、
不思議な世界が広がっている。美術品を収集せず、特別展の開催のために使用されているので不定期公開である。
芹沢_介美術館 石水館
昭和56年(1981) 静岡県静岡市
登呂遺跡の敷地内という景観に配慮してなのか、周囲には木が植えられており、建物の姿が隠されている。
外観だけ見せられたら、一体何なのか謎だ。西洋の城壁、要塞のような石積みの壁が立ちはだかっている。
ツタも絡まりまるで遺跡である。内部に足を踏み入れると、天井の栗材が荒々しい石材と絶妙に調和していて驚かされる。
桂花の舎
昭和59年(1984) 神奈川県大和市
閑静な住宅街にある住宅兼アトリエである。白井の没後に完成した。
雲伴居
昭和59年(1984) 京都府京都市
白井晟一の遺作となった住宅建築である。彼はこの建物の工事中に倒れ、完成を見ることはなかった。
塀に遮られて建物の姿がほとんど見られないのが残念だが、敷地内の紅葉の美しさに息を呑んでしまった。
白井は故郷・京都に作品をつくってこなかったが、遺作が京都に竣工するとは、これも何かの運命なのだろうかと思った。

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